Published: 2025-09-26 20:10

映画『テレビの中に入りたい』──テレビの中に入りたくなるほど、居場所がないと感じるすべての人へ

A24の新作『テレビの中に入りたい』は、90年代のアメリカ郊外で、孤独を抱え自分のアイデンティティに悩むティーンエイジャーたちによる、幻想的でメランコリックな作品。35ミリフィルムで撮影された鮮やかでレトロな映像美とともに若者たちの心のなかに潜む詩的で刹那的な世界を描き出す。2024年サンダンス映画祭のミッドナイト部門でプレミア上映され、第74回ベルリン国際映画祭パノラマ部門正式出品、第40回インディペンデント・スピリット賞では作品賞を含む主要5部門にノミネートされた。当初4館での限定公開だったが、469館に拡大され、熱狂的なファンを生み出している。

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『テレビの中に入りたい』は、『ANORA アノーラ』『私たちが光と想うすべて』『愛はステロイド』等と並び、昨年の世界のインディペンデント映画シーンをにぎわせた注目作だ。英国映画協会（BFI）発行の映画雑誌『サイト・アンド・サウンド』の2024年映画ベスト50では11位に選ばれている（注1）。

物語の始まりは1996年。7年生（中学1年生）のオーウェンは、2歳年上のマディ（ジャック・ヘヴン）（注2）の家で見た、『ピンク・オペーク（ピンクの混沌）』というドラマに夢中になる。ドラマの主人公はふたりの少女、イザベルとタラ。サマーキャンプで一度出会ったふたりは、遠く離れて暮らしていながらも「精神の地平」でつながっている。「ピンク・オペーク」と名乗る彼女たちは、時間と現実をゆがめてこの世を破滅させようとする巨大な悪、「ミスター憂うつ」の一味と人知れず戦っているのだった。

■「自分がわからない」

ゴシック的美意識に基づく画面で、神話体系を参照しながら展開されるらしいドラマ『ピンク・オペーク』は、これ自体なかなか魅力的に見える。海外ドラマに詳しい人ならすでにピンと来ているとおり、このドラマは1997年から2003年にかけて放送された、カルト的人気を誇る実在のドラマ、『バフィー 〜恋する十字架〜』をゆるやかにモデルにしている。 　 『ピンク・オペーク』を面白そうだと思っていながらも、オーウェンがこれを実際に見ることができなかったのは、放送が夜10時半からであるのに、夜10時に就寝するよう親からきつく言われていたからだった。特に父親から強く抑圧されている彼は、いつも鬱屈して悩みを抱えている。最大の悩みは「自分がわからない」ことだ。きみは自分自身を恐れているのだとマディは指摘する。自分自身のなかに潜んでいるものが怖いのだと（注3）。一方、同性愛者を自認するマディもまた、家族やクラスメートとのあいだに齟齬を抱えていた。

出会いから2年後、成長したオーウェン（ジャスティン・スミス）にマディは、一緒に街を出ようと持ちかける。だがオーウェンは決心がつかず、マディはひとりで姿を消す。『ピンク・オペーク』もほどなく放送終了し、さらに数年が経ったとき、マディが突然オーウェンの前に現われる。これまでいったいどこにいたのかと尋ねるオーウェンに、マディは信じがたい話を語りはじめるのだった……。

■究極の孤独、不条理で破滅的な美

自分が何者であるかがわからず、居場所も見つけられず、現実よりも『ピンク・オペーク』の世界のほうが現実のように感じるというオーウェンとマディの状況は、10代のころにほとんどの人が抱えるアイデンティティにまつわる苦悩の、非常に正確な表現であるように見える。だがオーウェンとマディは、さらに極端なところまでその苦悩をつのらせていく。実際この物語は、監督ジェーン・シェーンブルンが、トランスジェンダーとしての自身の経験を寓意的に描いたものなのだ。

オーウェンの孤独はただの孤独ではなく、世の中のすべてから、自分自身からさえも疎外された、究極の孤独として立ちあらわれる。テレビ画面をはじめとして、この映画のなかの光はたびたびちらついて見える。路上では切れた電線が火花を散らし、光は点滅するものとしてある。明るく見えるものもずっと明るいわけではない。光はおぼつかない。夜中にこっそりと家を抜け出して『ピンク・オペーク』を見に行くオーウェンは、夜の闇のなかを歩み、翌日、早朝の光のなか家へと向かう。オーウェンは曖昧な光のなかにいる。

では、この映画でオーウェンが見聞きするものは、どこまで現実だったのだろう？　マディはほんとうにオーウェンの前に再度現われたのだろうか？　いやそもそも、『ピンク・オペーク』というドラマ自体、オーウェンが記憶していたとおりのドラマだったのだろうか？　大人になってから配信でこのドラマを見直したオーウェンは、不条理とさえ言える経験をするだろう。

この映画のヴィジュアルに影響を与えたものは（『バフィー』以外にも）複数あるだろうが、誰の目にもすぐ明らかなのは、デヴィッド・リンチからの影響だ。リンチ美学を引き継ぐ画面の不条理さもまた、オーウェンの足場をますます不安定にする。『テレビの中に入りたい』は、哀切極まりない疎外感と絶望を、明滅する光と寓意に満ちた画面で、蠱惑的で官能的な、破滅的なまでの美しさをもって描き出す。

(1) https://www.bfi.org.uk/sight-and-sound/polls/50-best-films-2024 (2) 本作では Brigitte Lundy-Paine とクレジットされているノンバイナリーの俳優。 (3) マディは『ピンク・オペーク』のイザベルを、主人公にしては怖がりで退屈だ、それに対して「やられたらやり返す」タラは「最高にイケてる」と言うが、ここですでにオーウェン＝イザベル、マディ＝タラという対応関係が成立していたのだろう。

■『テレビの中に入りたい』

9月26日よりヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー 配給：ハピネットファントム・スタジオ © 2023 PINK OPAQUE RIGHTS LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

著者プロフィール：篠儀直子（しのぎ なおこ）

翻訳者。映画批評も手がける。翻訳書は『フレッド・アステア自伝』『エドワード・ヤン』（以上青土社）『ウェス・アンダーソンの世界 グランド・ブダペスト・ホテル』（DU BOOKS）『SF映画のタイポグラフィとデザイン』（フィルムアート社）『切り裂きジャックに殺されたのは誰か』（青土社）など。

編集・遠藤加奈（GQ）